キャプテン

素晴らしい作品を残したね

ちばてつや(漫画家)


ポプラ社発行「天国の郵便局」 拝啓
 あきお、今年の二月に九十一歳でお袋が亡くなったよ。そのときのお葬式で墓碑銘を見て気が付いたんだけれど、不思議なことに十年毎にお葬式を出すことになっていたんだ。十年前の一九九四年は親父、一九八四年は、あきお、君が逝ってしまった。そして二〇〇四年の今年だから、本当にちょうど十年毎になる。
 終戦を満州の奉天で迎えた僕たち一家は、六人がひとりも欠けずに日本に帰ってくることができた。あのときの引き揚げでは二十四万人余りの人たちが亡くなっているというから、六人が揃って帰れたのは奇跡だし、男の子四人を連れての逃避行は想像を絶する厳しいものだった。だから親父やお袋には今でも本当に感謝している。
 一家で戦禍を潜り抜け、両親は祖国の焼け野原の中で復興のために、四人の子供を育てるために一生懸命働いた。あのときは日本人みんながそういう思いをして、そして今の日本がある。
 日中の国交が回復したすぐ後、六人で旅をしたね。中国大陸で親父が働いていた印刷工場や、あきおが生まれた病院を訪ねる旅だった。幸いに印刷工場も病院もまだあったけれど、いちばんの目的は中国人の恩人の徐集川(じょしゅうせん)さんに会ってお礼を言うことだった。終戦のドサクサの中で中国も内戦状態にあって混沌としていたから、徐さん自身も自分の身を守るのに精一杯だったはずだ。
 そんな中で僕たち一家を命懸けで(かくま)ってくれた徐さんに、親父はどうしても会いたかったと思う。集川というのはペンネームで、詩を作ったりしていて親父と気が合ったみたいだが、残念なことに徐さんに会うことはできなかった。
 記憶を辿って訪ね歩いた旅だったが、終戦の前に家族で行った「星が浦」という大連港のすぐ側の避暑地のホテルも残っていてみんなでくつろぐことができた。
 みんな疲れてボロボロになって帰国したけれど、若いあきおはとても元気だったね。そのとき終戦後とてもお腹が空いていて、それを記憶しているって話していたことをよく覚えている。この旅が全員揃った最後になってしまったので、そのとき撮った写真を見る度に、懐かしくて胸が熱くなってしまう。
 今は六人のうち三人が欠けて半分になってしまったが、この手紙を書いていると、家族というのは生きる原点だったような気がする。
 今ごろ三人はきっと天国で再会していることだろう。
 あきおは二十年前に四十二歳で亡くなってしまったが、僕も六十六歳になるよ。漫画家は週刊誌の時代になってから長い間無茶苦茶な生活を送っているので、今では僕の体もガタガタだ。
 あきおがいなくなってずっと、「四十二歳じゃ惜しい、惜しい」と思っていたけれど今は違う。短い人生だったけれど、素晴らしい作品を残したじゃないか。そんなにたくさんではないけれど、『キャプテン』や『プレイボール』は今でも多くの読者が読んでくれている。
 誰にも増して充実した人生だったんだ。いい人生だったんだ。僕は今、そう思っていることを最後にあきおに伝えたい。
敬具


ちば・てつや……一九三九年、東京生まれ。日本漫画協会理事。十一歳で漫画同人誌『漫画クラブ』に参加。十六歳でプロデビュー。主な作品に『1・2・3と4・5・ロク』『あしたのジョー』『おれは鉄兵』『あした天気になあれ』『のたり松太郎』など多数にのぼる。

 ポプラ社から発売された「天国の郵便局」の中のエッセイです。ゆっくりゆっくり読んでください。久しぶりにジワッときました。人生は細く長くかなぁ〜太く短くかなぁ〜。自分は後者を望んでいます。(Oz)
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